bladerunner2049
bladerunner2049を観ました。
思い浮かんだことをつらつらと書いていきたいと思います。
(ネタばれはないです。ただ長いです。)
映画はジョイを演じたアナ・デ・アルマスが良くてそれだけで観てよかったと思った。
では映画全体を通してはどうだったのか?
思い浮かんだのは「感傷」という言葉だった。
それは前作だけで完結していて良いと思ったのと、
前作の方が私個人にとって今作より切実で根元的な問いであったからだ。
切実で根元的な問いって?
なぜ前作が今作"より"切実で根元的なの?
bladerunnerは前作、今作も人間とレプリカントを描くことでその境界を明るみに出し、その線を曖昧にして"人間らしさ"とはなにか、ということ扱っている。
前作のデッカード、今作のKにとって、"人間らしさ"とはまさにピノキオの物語に当てはまっている。つまり動く木偶が"人間"になるための物語だ。
前作では人間のデッカード、今作ではレプリカントのKというスタート地点からピノキオの物語を描いている。それはとても良い対比になっていると思った。
そしてbladerunnerは、翻って観る者に対しても"人間らしさ"を問うかたちになっていて、"なぜ、いま、ここにいるのか"という、私にとっての切実で根元的な問いと重なってくるのだ。
これが切実で根元的な問い。
前作は人間から、今作はレプリカントからお互いの境界線へ向かって物語は駆けていく。
それは表が裏に、裏が表に変わっていくようなもので、今まで"見ていたもの"が覆され、揺さぶられる。
ただ前作では表が裏に裏が表に、そしてどちらになにがあるかわからなくなって宙吊りの状態になるのに対して、今作はラストのシーンで表と裏が"願望、感傷"として出てしまっているように思った。
個人的に真に切実で根元的な問いには、"ミラクル"がなぜおこったのか、"なぜ、いま、ここにいるのか"という理由がわからないように答えはわからない、でとまるものであると思う。
それゆえ前作ラストで完結して良いと思うし、前作がより切実で根元的で今作は感傷になるのである。
結局のところジョイを演じたアナ・デ・アルマスを良いと感じている自分もどっぷりと感傷に浸ったのだなと思う。
そして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という題がすべてを持って行ってる凄さを改めて感じた。
ここまで読んでくれた方は感謝、というか変態な方ですね。
ありがとうございます。
一杯飲みにいきましょう。
行き止まりの壁を前にして -惑星ソラリス-
「惑星ソラリス」という映画を見た。
どんな映画?と聞かれたらなんて答えるだろうか。
ふと、”行き止まりの壁に映されたシネマ”という言葉が浮かんだ。しかし、全然説明になっていない。
それはもどかしい。
今から上の言葉をもう少し言語化していきたいと思う。
ソラリスのあらすじ
「惑星ソラリス」(from allcinema)
近未来、未知の惑星ソラリスの軌道上に浮かぶ宇宙ステーションで異常事態が発生。その調査のために科学者クリスは地球を出発する。到着したステーション内は荒れ果て、先発の3人の科学者は皆、狂気の淵に立たされていた。そして、クリス自身も数年前に自殺したはずの妻ハリーの姿を目撃し、言い知れぬ衝撃を受ける。だがそれは、人間の意識を反映して具現化させるソラリス表面のプラズマ状の海の仕業だった……。
このあらすじで共有したいのは、「惑星ソラリス」という星の海が「人間の意識を反映して具現化させる」というところだ。
この映画では、ソラリスを訪れた主人公の前に亡き妻が現れ、その反応が中心に描かれる。それだけ。
それだけ?
ほんとにそれだけ。
SF映画の銃撃戦やお色気シーンはない。
眠たくなる映画だけれど、個人的に退屈することはない。
(眠たくなる、はこの映画では大きな意味を持つ)
なぜ退屈しないかというと、「惑星ソラリス」は"地球”に暮らす私たちそのものに置き換えられるからだ。
つまり、私たちは「惑星ソラリス」に暮らしていると仮定することだきるのだ。
ちょっと意味がわからないことを言ってると思う。(同時に肝要を述べているとも思う)
別の言葉で言ってみる。
ソラリスは「人間の意識を反映して具現化させる」のであって、あなたの今見ている世界もソラリスが具現化した幻かもしれない。
あなたの隣にいる人も、食べ物も建物もすべてがソラリスの海かもしれないのである。(これは否定も肯定もできない)
なにを言っているの?と思った方、至極まっとうな反応だと思う。
(こんなblogは閉じてビールを飲んだ方が良いかもしれない)
映画では冒頭、現実と幻(ソラリスの海)の境目が共有される。
それゆえ、見ているものは主人公と一緒に画面に現れる"もの"を幻と認識しながらストーリーを追うことが可能である。見るものは安心して幻と向かいあえるのである。物語の最後には、現実と幻の裂け目というものも共有される。
しかしである。
前提として共有している目の前の世界は現実なのか?と疑問が浮かぶ。
鳥のひなが初めて見たものを親と思うように、人は生まれて初めて認識する世界を現実と捉えるだけでそれは仮のものかもしれない。
面白いのは、目の前の世界はどこまでいっても目の前の世界であり、「ソラリス」と確認できない点だ。
それが認識の限界であり、世界の限界になる。
"行き止まりの壁に映されたシネマ"で言いたかったことに近づいてきたように思う。
当たり前のことだけれど、人は自らの死を認識できない。他者の死から死のなにかを想像するだけである。
(死んでから「実はソラリスでした!」と、なるかもしれない)
だから?という声がどこからか聞こえて来る。笑
「そんなことは考えてもしょうがない」
その通りで、目の前が虚構だろうとなんだろうと迫ってくるものには対処しないといけないし、理不尽な出来事があっても生きていかなくちゃいけない。
(乙女の恋はそれだけ切実なのである。)
ここで言いたいのは、
”行き止まりの壁”に向かい合う時、その人の生きる姿勢、人となりというものが露わになることだ。
映画の監督であるタルコフスキーは"壁"に向かい合った時、
壁の前にいる自分を表しつつ美しいものを撮る、そんな姿勢であったのではと思うがどうだろうか。
(単に惑星ソラリスにあーだこーだ言いながら酒がのみたい。)
さいごに、
映画では美しい妻がなんども現れてくる。(それはとても画になるし、象徴的だ)
映画を見た後、あなたの前にはなにが現われているだろうか?
風吹いて響く冷たさ冬の朝
風吹いて響く冷たさ冬の朝
ー冬の朝
やっと明けても夜の寒さがそのまま残っている冬の朝である。
寒波来てみなの口もと白き花
寒波来てみなの口もと白き花
ー寒波
日本付近を西から東へ低気圧が通り抜けたあと、大陸からの寒気団がもたらす厳しい寒さ。
寒波来て耳のかたちをしかと知る
寒波来て耳のかたちをしかと知る
ー寒波
日本付近を西から東へ低気圧が通り抜けたあと、大陸からの寒気団がもたらす厳しい寒さ。
寒波くるや山脈波璃の如く澄む 内藤吐天
冬深く触覚伸ばす車かな
冬深く触覚伸ばす車かな
ー冬深し
一年で寒さの最も極まる時期のこと。積もった雪や北風に吹かれる枯れ草、防寒着に身を包む人々など、どこを見ても冬真っ盛り。春が待たれる日々である。
冬深し柱の中の濤の音 長谷川櫂
くしゃみして触れる温度差身と心
くしゃみして触れる温度差身と心
ー嚔
鼻の粘膜が刺激されて出る。嚔の際に発する音がそのまま名前となったとも言われる。
声の跡交わるくぼみ朝の雪
声の跡交わるくぼみ朝の雪
ー雪
水蒸気を多量に含んだ空気が上昇し、上空で冷却され、昇華され、結晶となり、雪となって降ってくる。昔から月雪花とたたえられ、雪は冬を象徴し美しい景観を呈する。地方によって降雪量の差が大きく、その趣も生活への影響もさまざまである。六花。牡丹雪。小米雪。粉雪。綿雪。雪空。ちらちら雪。小雪。大雪。深雪。吹雪。雪明り。しづり雪。雪煙。朝の雪。夜の雪。暮雪。
窓の外闇に融けゆくむつのはな
窓の外闇に融けゆくむつのはな
ー雪
水蒸気を多量に含んだ空気が上昇し、上空で冷却され、昇華され、結晶となり、雪となって降ってくる。昔から月雪花とたたえられ、雪は冬を象徴し美しい景観を呈する。
六花。牡丹雪。小米雪。粉雪。綿雪。雪空。
下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆
湯にふれて握るつめたさ冬の暮
湯にふれて握るつめたさ冬の暮
ー冬の暮
冬の夕暮れ。日没とともに一気に冷え込み、早い時間からあちこちに明かりが灯る。寒々とした情景であるが、どことなく生活感が漂う。