線路にころがるもの

線路は電車の通る路でありながら、相対する二つの世界の境界でもある。

踏切をわたる時、自らはあちらとこちら、どちらにも属していると言えるし、いないとも言える。どこまでもつづく線路、右目と左目に映る景色の違いを目の前にして、一瞬、自身がどこにいるのか分からなくなる体験をした。

 その線路は街の郊外、小さな山の近くにあった。

踏切の遮断機の前では、コンクリートの灰色にくすんだ暖色や寒色が点在する住宅街か、緑色がいくつも重ねられた山、そのどちらかしか見えない。けれど、線路の上では両者を一望することができる。

そこで、自身がどこにいるのかわからなくなる体験、をしたのだけれど、それはとても奇妙でいて心地よいものだった。奇妙と感じたのは、一つの矛盾を感じたからで、そこに身を置いている感覚が心地よいものなのかもしれない。

住宅地の方にいる自分は社会、いわば秩序に属しているのだけれど、一度線路を渡れば、自然、無秩序の方に属することになる。矛盾とは、線路の上で秩序と無秩序、どちらにも属して、どちらにも属していない状態のことだ。

ここで気づくことがある。人が動物だということだ。はじめは自然の方に属していたヒトが、いつのまにか社会の方に属して人間になっている。自然の世界なんて忘れてしまっている。社会の秩序に絡まって、生きている。

たぶんの話なのだけれど、私達が野を駆ける兎、流れに身を任せる魚、空を飛ぶ鳥、そんな野生の生物を見て羨ましがるのは、人が失った自然の世界の体系のなかに生きているからではないだろうか。

けれど、それは瞬間、いわば狩猟の世界でそこには安定というものはない。眺めるにはいいが生き辛い。だから人は時間をつくり、約束事を決めて、蓄えを築き、現実と呼ばれる今の世の中に住んでいる。楽であると信じて。

話を、線路の上では秩序と無秩序、どちらにも属して、どちらにも属していない状態のことにもどそう。

線路のあちらとこちら、では世界の体系そのものが違う。でも、人は両者の世界を知っている。あちらとこちらの境界の上に立って、互いに矛盾する二つの世界の体系の間に生きることが出来れば、二つの世界のルールから縛られることがなくなる。……右手で左の世界に携わり、左手で右の世界に携わる。こんな感じだろうか。

踏切の警報機が鳴り始める、二重の世界を生きるなんていう妄想をやめて、歩みを進める。線路の片側には日が沈みはじめ、もう片方では電車が灯りをつけてこちらに向かってきている。

踏切を渡り終えて、帰路に着く人たちのなかに混ざる。すぐに帰ればよかったのだけれど、電車が近付いて大きくなり、目の前を轟音を立てて過ぎる、そしてどこまでもつづく線路の向こうに行ってしまうのを見届けた。

自由という言葉を日常で耳にする機会がある。そして、それはなに?と問われることも多い。次にそのような事があれば、線路にころがるもの、そう言おうと思った。

線路の上にはなにもなくなって、また遮断機が上がった。

 

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