詩について考えたこと

 

詩が好きです。

昨日、ボルヘスのつながりで詩を読んでいて、思うことがあったので書いてみることにした。

 

詩とはなんだろうか。その問いに、ひとつの言葉が出てきた。

詩とは、天使の思考の足跡である。

この言葉を説明するにあたって、ウィトゲンシュタインの「論考」を引用する。

 

5.6         私の言語の限界は,私の世界の限界を意味する。

5.61       論理は世界に充満する。世界の限界は,論理の限界でもある。思考できないものを思考することはできない。かくして,思考できないものを語ることもまたできない。

7            語りえぬものについては,沈黙せざるをえない。

 

言語というものは可能性を示すだけであり、並んでいるだけでは何も意味を持たない。読み手が可能性に限界を設けることで意味を持つ。それが私の世界の限界でもある。

言語には論理があり、その論理をこえて思考は出来ず、思考できないものは私の世界の限界の外で沈黙している。

 

詩は、私達が日常生活で使う言語の論理をこえて、つまり限界を一段上げて高次の存在(いわば天使)の思考の領域を語っている。(天使にとっても、神の次元は語りえない)

 

実際にひとつ詩を引用してみる

 

ソネット

 

温かく迎え忠実に映す

そこでは生けるものは

常に外観となる 鏡は

暗がりで月光のよう

 

夜 ランプの漂う光が

鏡に華やかさをもたらし

花瓶の瀕死の薔薇は哀しみをもたらす

花瓶の中で薔薇は頭を垂れる

 

鏡は 苦しみを倍にすれば私にとって魂の園であるものを倍にする

そしておそらく いつの日か

 

その青味を帯びた穏やかな幻影の中に

客人が住まい 触れ合う額と絡まる手が

映ることを望んでいる

 

この文章を、日常言語を使って思考しようとしても、その論理をこえていて意味を成さない。詩の読み方が必要になってくる。

 

詩の読み方とはなんだろう。

感じること、とよく言われるけれど、それだけでは足りない。(ただの受け身になってしまう)

感じたことを考えること、考えたことを感じること。(分かりづらい言い方だけど)この二つを同時に行い、そのせめぎ合いの境を綱渡りのように辿っていくことが詩の読み方だと思う。

例えば、「温かく迎え忠実に映す」ものが「鏡」であること。普通、鏡は冷たくて暖かくはない。この鏡は、鏡の特性(忠実に映す)を持った鏡でないものを示す。(それは何か?)

次に、「夜」という時刻に「漂う光」が、鏡には「華やかさ」、薔薇には「哀しみ」をもたらすということ。この状況、関係は「苦しみを倍にすれば私にとって魂の園であるものを倍にする」ということ。(それは何故?)

最後に、詩人が「客人が住まい 触れ合う額と絡まる手が映ることを望んでいる」ということ。その願いを読み手は叶えることが出来るのだろうか。そのためには何が必要だろうか。詩人が、わざわざこの様な形でなんらかのメッセージを残す意味とはなんだろうか

それはとても大切なことだと思うけれど、日常の言語では思考できない。

詩は、詩によってしか語りえない。私達人間にできることは、詩人(天使)が残した文書を手掛かりにして、その領域に思いを馳せることだけなのでしょう。

 

なんというか、考えの限界に至ったので、ここで文章を止めます。(続きは詩で)

ありがとうございました。