川上未映子さんの謙虚さ、あるいは巫女であること

川上未映子さんの文章が好きで、エッセイをよくつまみ読みする。四冊ほど、ゆるやかに気ままに読了している。昨日、枕元に転がっていた魔法飛行を読んでいてそう気付いた。同時に、心地良くつまみ読み出来る魅力はなんだろうかと考えた。

ひとつ、川上未映子さんの文章、あるいは姿勢としての魅力はその謙虚さにあるのだと思った。この謙虚さとは、誰とでも、何とでも、等しく距離を保つということだ。

例えばテレビについて書いた「耳と目の今にも消滅する機会」。冒頭、川上さんはテレビを見ない、と言う人と、それに対して「テレビを見る人を馬鹿にしているように感じる」という感想を持つ周りの人を紹介する。次に、どちらを支持するわけでもなく、自分がテレビを見ない側の人でその理由として、テレビ欄がないからとか、リモコンが難しいとか述べる。

ここで、テレビは情報が多いのか少ないのかわからないし、つけっぱなしのテレビのどこが愉しいのかちょっとわからないと、見ない側の意見に賛成する。けれど、次の文章では「しかしその愉しさをわからないのは彼らではなくわたしのほうなので、そういう機会のときには、わかるかもしれない可能性を期待しつつ、ちょっと無理してでも画面を見つめ一生懸命みることにしています。」とあくまでひとつの立場から距離を保つ。

私の場合、人と話しているときに、ひとつの意見、あるいは紋切り型の思考にはまってしまって会話が終わった後に、私の意見ではないものを喋っていた感覚、さらにはその会話に相手を付き合わせてしまったと後悔することがある。そういえば、話を聞いて面白い(賢い)と思う人は、川上さんのように謙虚である人だなと思う。

私のような謙虚さに欠ける人間(卑下でもなく)にとっては、川上さんのように謙虚な人の話はとても魅力的なのである。それは、日々の凝り固まったひとつの視点を抜けだして、あれやこれやと賢人の思考を追体験できるからだ。さらに川上さんの謙虚さは、小説になると巫女という業にかわるからすごい。

巫女とは、自らの身体を容れ物にすることだ。あらゆる人の立場、考え、感覚、場と等しく距離を保ちつつ、巫女はそのひとつひとつを取り入れて、ない交ぜにして、小説というかたちにして吐き出す。読者は日常ではない、ひとつの世界を楽しむことが出来る。つまり魅了されてしまうのだ。

 

以上がとりあえず思った川上さんの魅力。あと関係ない話だけど、ここで述べた謙虚さを、いや傲慢さだよ、と言う人がいたら、わたしはその人をとても興味深く思う。