なあ、僕と共鳴せえへんか?

 

「あなたにとって、他者とはなんでしょうか?」

 

昨日、そんな質問が会話に出てきた。その時、質問はわたしに向けられたものではなかったのだけれど、わたしならばなんてこたえるだろうと考えてみた。

考えてみると、「なあ、僕と共鳴せえへんか?」という言葉が自然と出てきた。

つまり、わたしにとって他者とは、共鳴を求める相手になる。

共鳴、という言葉に行く前に、「他者」は「私」にとっての鏡であったり、影であるとよく聞く。その事についてまず述べてみる。

私がどういった存在であるかは、他者と接して浮かぶ異和を自身の輪郭の欠片として拾うことで、認識する事が出来る。その欠片のいくつかをかき集めて、なんとか「私」という幻想をわたしは抱いている。他者は私を映す鏡であり、映った影であり、他者がいなければわたしは私を見る事が出来ない。

時として、私は、他者の差異に惹かれ、類似を頼りに近づくことがある。けれど、私が他者に成る(合一する)ことは欲しようが、厭おうが絶対にない。それは、わたしにとって安心をもたらすのだけれど、同時に悲しみにもなる。

じゃあ、惹かれる他者を前にして何もしないのか、というとそんなことはない。悪あがきかもしれないけれど、一瞬だけでも一緒になれればと思い、「共鳴」という言葉が出てくる。

共鳴というものが他者と出来るならば、私は相手を手にすることができて(同時に相手にも手にされている)、互いの差異は補い合い、類似は重なる。そこには「私」「他者」なんてものはなくなる。別の存在であると認識しながら、そこにはひとつを感じることができる。

私と他者は、もともとひとつであったのかもしれない。ならば、なぜ離ればなれになったのだろう、という疑問が出てくる。そのこたえは個人的にあるのだけれど、恥ずかしいので伏せておく。あえていうならば、やはり、次の言葉になる

 

「なあ、僕と共鳴せえへんか?」