ことばのパレット

「いい色でしょ」

「その色がどうしたの?」

「うん、この色を生かしたいと思って」

 

詩を読んでいて、ふと美術の時間のことを思い出した。ある人が画用紙を前にしてじっと動かないので、つい「どうしたの?」と声をかけてしまったやりとりのことだ。

彼女は絵を描くのが上手な人で、私は彼女のファンだった。自分の作業はそっちのけで制作過程を気にするほど、彼女の作品が好きだった。

彼女は画用紙の前でただじっとしていたわけではなかった。筆の先についた絵の具を見ていたのだった。パレットにはいくつもの色が並んでいて、溢れた色は傍らのスケッチブックに移されていた。よく見れば、彼女の使う絵の具は自分と同じ十二色のものだった。

筆を握り直した彼女は“その色”をすでに塗ってある場所に重ねていった。その時彼女は、下書きをこえて絵を描いていた。

それを見て私はますます彼女のファンになったのを覚えている。彼女は何も言わなかったのだけれど、絵の描き方が私とは根本から違っていることがわかったからだ。つまり、私は描きたいと思っているもの(頭のなかのイメージ)をいかに忠実に描けるかに拘泥していたのだけど、彼女は十二色から生まれる“いい色”がどうすれば良く映えるかということに苦心していたのだ。(敵うはずがない!)

出来上がった彼女の絵を皆が素晴らしいと言う。けれどその誰もが、あざやかな彩色の向こうに塗られたたくさんの色を知らない。まえ振りが長かったけれど、これは詩にも言えることだと思った。

詩人は日々ことばのパレットに“いい色”を作っては、紙の前でその色をどう使おうかと悩んでいる。その人知れぬ行いによって、詩は誰もが使う言葉を使いながら見たことのないことばの極彩色を見せてくれるようになるのではないだろうか。

私のことばのパレットには空白がたくさんありそうだ。しばらくの間、色をつくって遊んでみようと思う。