すきとおったたべもの

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりのきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

 

注文の多い料理店』序 宮沢賢治

 

あの注文の多い料理店に序文があるとは知らなかった。

“すきとおったほんとうのたべもの”が何かはわからないけれども、ふと、教科書の頁を捲る小さな手と鮮やかな挿絵を思い出した。読後には確かに“美味しい”といえる感覚があったのも覚えている。

今からもう一度、『注文の多い料理店』を読んでみようと思う。