行き止まりの壁を前にして -惑星ソラリス-

 

惑星ソラリス」という映画を見た。

どんな映画?と聞かれたらなんて答えるだろうか。
ふと、”行き止まりの壁に映されたシネマ”という言葉が浮かんだ。しかし、全然説明になっていない。
それはもどかしい。
今から上の言葉をもう少し言語化していきたいと思う。


ソラリスのあらすじ
惑星ソラリス」(from allcinema)
近未来、未知の惑星ソラリスの軌道上に浮かぶ宇宙ステーションで異常事態が発生。その調査のために科学者クリスは地球を出発する。到着したステーション内は荒れ果て、先発の3人の科学者は皆、狂気の淵に立たされていた。そして、クリス自身も数年前に自殺したはずの妻ハリーの姿を目撃し、言い知れぬ衝撃を受ける。だがそれは、人間の意識を反映して具現化させるソラリス表面のプラズマ状の海の仕業だった……。


このあらすじで共有したいのは、「惑星ソラリス」という星の海が「人間の意識を反映して具現化させる」というところだ。
この映画では、ソラリスを訪れた主人公の前に亡き妻が現れ、その反応が中心に描かれる。それだけ。

それだけ?
ほんとにそれだけ。
SF映画の銃撃戦やお色気シーンはない。
眠たくなる映画だけれど、個人的に退屈することはない。
(眠たくなる、はこの映画では大きな意味を持つ)

なぜ退屈しないかというと、「惑星ソラリス」は"地球”に暮らす私たちそのものに置き換えられるからだ。
つまり、私たちは「惑星ソラリス」に暮らしていると仮定することだきるのだ。
ちょっと意味がわからないことを言ってると思う。(同時に肝要を述べているとも思う)

別の言葉で言ってみる。
ソラリスは「人間の意識を反映して具現化させる」のであって、あなたの今見ている世界もソラリスが具現化した幻かもしれない。
あなたの隣にいる人も、食べ物も建物もすべてがソラリスの海かもしれないのである。(これは否定も肯定もできない)

なにを言っているの?と思った方、至極まっとうな反応だと思う。
(こんなblogは閉じてビールを飲んだ方が良いかもしれない)

映画では冒頭、現実と幻(ソラリスの海)の境目が共有される。
それゆえ、見ているものは主人公と一緒に画面に現れる"もの"を幻と認識しながらストーリーを追うことが可能である。見るものは安心して幻と向かいあえるのである。物語の最後には、現実と幻の裂け目というものも共有される。
しかしである。
前提として共有している目の前の世界は現実なのか?と疑問が浮かぶ。
鳥のひなが初めて見たものを親と思うように、人は生まれて初めて認識する世界を現実と捉えるだけでそれは仮のものかもしれない。

面白いのは、目の前の世界はどこまでいっても目の前の世界であり、「ソラリス」と確認できない点だ。
それが認識の限界であり、世界の限界になる。

"行き止まりの壁に映されたシネマ"で言いたかったことに近づいてきたように思う。
当たり前のことだけれど、人は自らの死を認識できない。他者の死から死のなにかを想像するだけである。
(死んでから「実はソラリスでした!」と、なるかもしれない)

だから?という声がどこからか聞こえて来る。笑

「そんなことは考えてもしょうがない」
その通りで、目の前が虚構だろうとなんだろうと迫ってくるものには対処しないといけないし、理不尽な出来事があっても生きていかなくちゃいけない。
(乙女の恋はそれだけ切実なのである。)

ここで言いたいのは、
”行き止まりの壁”に向かい合う時、その人の生きる姿勢、人となりというものが露わになることだ。

映画の監督であるタルコフスキーは"壁"に向かい合った時、
壁の前にいる自分を表しつつ美しいものを撮る、そんな姿勢であったのではと思うがどうだろうか。
(単に惑星ソラリスにあーだこーだ言いながら酒がのみたい。)

さいごに、
映画では美しい妻がなんども現れてくる。(それはとても画になるし、象徴的だ)
映画を見た後、あなたの前にはなにが現われているだろうか?

 

 

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