私がつくる幻想に暮らすわたし

先日、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』の話をして、内容が中途半端だったので要点をまとめてみようと思う。

 

『競売ナンバー49の叫び』を読んで気づくのは「私がつくる幻想に暮らすわたし」ということで、そのことを中心に書いていく。

作中にはレメディオス・バロの「大地のマントを織りつむぐ」という絵が出てくる。実際の絵とともに文章を引用してみる。

「『大地のマントを織りつむぐ』と題された画のなかにはハート型の顔、大きな目、キラキラした金糸の髪の、きゃしゃな乙女たちがたくさんいて、円塔の最上階の部屋に囚われ、一種のつづれ織りを緒っている。そのつづれ織りは横に細長く切り開かれた窓から虚空にこぼれ出て、その虚空を満たそうと叶わぬ努力をしているのだ。それというのも、ほかのあらゆる建物、生きもの、あらゆる波、船、森、など、地上のあらゆるものがこのつづれ織りのなかに織り出されていて、そのつづれ織りが世界なのである」(二二頁)

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この画を見て、エディパという登場人物は泣く。乙女と自己を重ねるのである。

「足もとを見おろすと、そのとき、一つの画のせいでわかったのだ、いま立っているところは単に織り合わされたもの、自分の住んでいる塔から発して、二千マイルつづているものに過ぎない、まったくそれがメキシコというところで、つまりピアスは自分をどこからも連れ出してきているのではない、どこにも逃げ出せるところなどないのだ、と」(二三頁)

エディパがそうしたように、読者であるわたしも金髪の乙女と自己を重ねることができる。あるいは、乙女を意識、塔を身体と考えてもいい。

人は五感をもって世界を切り取り、認識して、そこに自己を置いている。バロの画のように、身体という塔の中に幽閉されているわたしという意識が、言葉という道具でつづれ織りの景色をつくりだして、それを世界としている。どこまでいっても逃げ出すことはできない。

そして重要なのは、その世界の織り方(世界の見方)は黒服の人物に決められているということだ。私たちは世界を見たいようにではなく、決められたある見方でみている。例えば、戦時中の「贅沢ハ敵ダ!」というようなスローガンや、今ではいい大学に入って大企業に入るのが良い、といったものが挙げられる。

ここで「わたしは幽閉されたままなのか?」と思うが、バロの画ではそうではない。

実は画にはつづきがあり、乙女は恋人に引かれて逃げ出すのである。どうやってかというと、織りつづけているつづれ織りの中に出口を織り込んで、そこから逃げ出すのである。そして、作中ではエディパが、正しく飾られた世界からその向こう側へ、という過程が描かれる。

これを読者(わたし)に当てはめたらどうなるだろうか。

“わたし”は、望む望まぬに関わらず、いつからか世界を五感で切り取って認識している。小さい頃はあるがままに切り取ることが出来た世界も、年を経るにつれてだんだんと限定するようになってしまう。人によっては、自身が作り出した小さな世界で身動きがとれなくなって、押しつぶされてしまうことだってある。

そう、世界が幻であろうと何であろうと、その世界に暮らすわたしの思いは切実で、掛け替えのないものである。

もし、大地のマントを織りつむぐの乙女のように、わたしが自由に世界を織る事ができるならば、限りある未来を搾り取る日々、から抜け出すことが出来るのかもしれない。そして、そのすべては“わたし”に委ねられているのかもしれない。

 

 

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)